*** 中国の「密の罠」 上海領事・自殺事件■1.「A君は卑劣な脅迫によって、死に追い込まれた」■これ以上のことをすると国を売らなければならない。 ・・・自分はどうしても国を売ることはできない。 こんな悲痛な遺書を残して、上海の日本領事館でA領事が首 をつって死んだのは、平成16(2004)年5月6日の事だった。 この遺書を読んだ杉本総領事は翌日、館員全員を集めて、涙な がらにこう語った。「A君は卑劣な脅迫によって、死に追い込 まれた」[1] Aさんは国鉄に勤めていたが、分割民営化に伴い、外務省で 再雇用された。アンカレッジやロシアで勤務した後、本省を経 て、平成14(2002)年3月に上海総領事館に単身赴任した。 着任後数ヶ月して、同僚に連れられて、上海市内の日本人目 当てのカラオケ「かぐや姫」に行った。そこで一人のホステス と親しくなった。 平成15(2003)年6月、そのホステスが「私を助けて。私を 助けると思って、私の『友人』に会って、、、」と必死に懇願 した。ただならぬものを感じたAさんは、懇願に応じて、『友 人』に会った。その一人が「唐」という中国情報機関のエージェ ントだった。彼らは日本人と親しくしているホステスたちを売 春の罪で摘発し、「客の名前を言え。でなければ辺境に送って、 強制労働させる」と恫喝したのである。 彼らはA領事の名前を聞いて、これだとばかり狙いを定め、 そのホステスをさらに脅して、Aさんに紹介させたのである。 ■2.「我々は一生の『友人』だからな」■ 唐らははじめのうちは極めて紳士的にAさんに接した。おそ らく「領事館の要員表が手に入らないだろうか」といった、当 たり障りのない情報を求めたのだろう。領事館の現地人スタッ フは、みな中国政府から派遣されており、この程度の情報は筒 抜けになっているのだが、まずは当たり障りのない情報から聞 き出して、徐々に機密性の高い情報に迫っていくというのが、 彼らの常套手段である。 Aさんは唐とこれ以上つきあっているのは、まずいと思った のだろう。平成16(2004)年4月に本省人事課に転属願いを出 し、すぐにロシア・サハリン州の在ユジノサハリンスク総領事 館に異動が決まったのである。 Aさんは異動の件をつい、なじみのホステスに話してしまい、 彼女を通じて、それを知った唐は、掌を返したようにAさんを 数日にわたって脅迫した。 我々に協力しなければ、ホステスとの関係を領事館員だ けでなく、本国にバラす。お前とホステスとの関係は、わ が国の犯罪に該当する。・・・ まぁ、いい。お前がユジノサハリンスクに行っても付き 合おう。我々はロシアについては色々知りたい。我々は一 生の「友人」だからな。 ■3.「国を売ること」はできない■ こう脅しながら、唐がAさんに要求したのは、日本の暗号シ ステムだった。Aさんは、領事館と本省との通信を担当する ただ一人の「電信官」だった。業務の中でもっとも重要なのが、 「秘」「厳秘」の公電にかける暗号の組立と解除だった。電文 を「暗号コード」で変換し、衛星を経由して日本に送る。逆に 日本からの電文をその「暗号コード」で解読する。 中国の情報機関は、衛星経由でやりとりされる通信を傍受し ており、その「暗号コード」が入手できれば、領事館と外務省 とのやりとりをすべて把握できる。 Aさんが異動すると聞いた唐は焦り、執拗に脅迫した。電信 官として暗号コードを渡すことは、「国を売ること」になる。 それをAさんは自らの命を絶つことで、拒否したのである。 Aさんの死を確認した杉本総領事は外務省本省に報告すると ともに、館員をすぐに「かぐや姫」に向かわせた。しかし、す でに唐はもちろん、ホステスも姿を消していた。 ■4.「ハニー・トラップ(蜜の罠)」■ Aさんを脅迫した中国情報機関の手口は、「ハニー・トラッ プ(蜜の罠)」と呼ばれる古典的なものである。冷戦初期にソ 連のKGB(国家保安委員会)や、中国情報機関が使った常套 的な手段で、欧米の外交官や政治家が自殺する事件が起きた。 アメリカやヨーロッパ諸国は、60年代にその対策として、 ハニー・トラップで脅された場合、直ちに担当機関に届け出る ようにした。アメリカであれば、大使館や領事館にFBI(連 邦捜査局)やCIA(中央情報局)のセキュリティ担当官を置 き、ハニー・トラップに引っ掛かった外交官は、彼らに届け出 て、包み隠さず事態を話せばよい。 セキュリティ担当官は、醜聞は公開せず、処分もしないとい う事を前提に、対策を指示する。ときには、その外交官に脅迫 に従う振りをさせて、相手がどんな情報を欲しがっているのか 探らせることもある。 さらには、わざと真実の情報を渡して、相手の信頼を掴んで おき、ここという時に虚偽の情報を流して、相手国の政策を誤 らせる。 70年代に入ると、欧米諸国ではこうした防諜システムが当 たり前になって、ハニー・トラップは効果がないとして使われ なくなった。 こんな古典的な手口に乗るような国は、今や日本ぐらいしか ない。欧米諸国で30年も前に実施している「ハニー・トラッ プ」対策が実施されていれば、Aさんが自殺する事もなかった のである。[2] ■5.「諜報戦争の備えを怠れば、、、」■ Aさんの例は氷山の一角に過ぎない。内閣情報調査室室長だっ た大森義夫氏は、こう語っている。[3] 私は1963年に東京大学を出て警察庁に入り、警視庁に配 属されました。その頃、大学のクラスメイトだったH君が 自殺しました。H君は外交官の名門出で、自身も外務省に 入りました。ドイツ語は教授よりもうまく、とても優秀で した。 彼も諜報工作、今回の事案と同じく女性を使った「ハニ ー・トラップ」に引っかかったと我々は聞かされました。 場所は当時、東西冷戦が火花を散らすベルリンでした。 ・・・ あれから四十年余の歳月が流れました。私は友の死を想 うと同時に、彼が外交官として順調に出世していたらどう なっていたか? と思います。諜報戦争の備えを怠れば有 為な人材の生命だけでなく、国家利益の長期にわたる流出 につながるのです。 H君以外にも、あるいは自殺に至らなくとも、旧ソ連東 欧圏を中心に、日本人の「被害」は私の聞いているだけで も何件もあります。旧ソ連KGB要員で1979年に日本を経 由して米国に亡命したスタニスラフ・レフチェンコの米国 議会における公式証言によっても、日本人公務員、政党関 係者、ジャーナリストなど多数が「獲得」され、金銭報酬 と引きかえに日本の機密を売り渡していたのです。 ■6.国を売った「ミーシャ」■ 一国の中枢に潜り込んで、出世し、外国に機密を売ったり、 場合によっては政策までねじ曲げてしまう人間を、イギリス情 報部の言葉で「モグラ」と呼ぶ。AさんやH君が自殺せずに、 そのまま国家機密を売り渡していたら、その「モグラ」になっ ていた処である。 最近、公開された旧ソ連時代の公文書では、KGB史上、最 も特筆されるべき「ハニー・トラップの成功事例」が明かされ ているが、それも日本外交官が「モグラ」となったケースであっ た。 「ミーシャ」というコード・ネームで呼ばれている、日本人外 交官は1970年代にモスクワの日本大使館で、Aさんと同様、電 信官を勤めていた。そして、ハニー・トラップに引っかかり、 モスクワ時代にKGBに機密情報を流し続けた。 ミーシャは、その後、帰国して、本省で電信暗号関係のより 重要なポストについた。KGB東京支局は、何人ものKGB部 員を専属としてつけた。この頃には、ミーシャは大金を報酬と して受け取り、積極的に情報提供を行うようになっていた。 東京の外務省本省と全世界の在外公館との文書が、全てKG B側に流れた。さらにミーシャは日本の暗号システムもKGB に知らせていた。ミーシャのもたらす情報は、常にクレムリン のトップまで報告されていた。特に重要なのは、ワシントンの 日本大使館が本省に送ってくる情報で、アメリカ高官の情報や、 米ソ関係、NATO関連の情報がソ連に漏れていた。Aさんや H君と違って、ミーシャは金目当てに国を売ったのである。 前述のレフチェンコ証言でKGBの東京支局は機能停止に陥っ たが、ミーシャの存在は暴露されなかったので、闇から闇に葬 られてしまった。今頃は、多額の退職金と年金を貰って、幸福 な晩年を送っているかもしれない。 ■7.「外務省としては何も手を打っていない」■ 「モグラ」は現在の日本にも大量に生息しているようだ。 昨・平成17(2003)年、中国のシドニー総領事館の一等書記 官がオーストラリアに亡命する事件が起きた。彼は日本国内に も現在1千人を優に超える中国のスパイが活動していると証言 している。[2] また、ある外務省職員は匿名で次のような内部告発をしてい る。[3] 彼が自殺したからこうして発覚したのですが、こういう 「ハニー・トラップ」を受けている大使館員はけっこうい ると聞きます。氷山の一角なんです。何度も中国に勤務し ているキャリアで工作を受けていると噂されている人はい ます。でも外務省としては何も手を打っていない。 ましてや、今回のことはノンキャリアの身に起こったこ とで、面倒くさいなくらいが、上の感覚じゃないんですか、 正直なところ。 そういうことにたいして、チャイナ・スクールの若手や ノン・チャイナスクールの人たち、われわれノンキャリア のなかには、猛烈な不満を持っている人たちが多いことは 確かです。私だってそのうちの一人です。 いずれにせよ、早急に求められているのは、カンウンタ ー・インテリジェンスのルール確立です。でなければ、自 殺までした彼が浮かばれないと思います。 ■8.事件を握りつぶそうとした外務省■ 「何も手を打っていない」外務省は、今回のAさん自殺事件で も、まさに「面倒くさいな」とでも言いたげな対応しかしてい ない。 A領事自殺の数日後、調査チームが派遣され、約1週間にわ たって、事情聴取を行った。電信システムに異常は見られなかっ たが、念のために、暗号システムを変更した。そして、最終的 に、「A領事の自殺の原因が、中国の情報機関当局の脅迫によ ることは揺るがしがたい事実である」と結論づけた。 そして中国政府幹部に、川口外相の名前で「厳重に抗議する」 と申し入れたが、相手は「調査する」という回答のみで、いま だにまともな返事が返ってきていない。 川口順子外相は、本件を小泉首相に報告もせず、また中国政 府からまともな回答もないのに、後任の町村外相に引き継ぎも しなかった。外務省内でも厳重な箝口令が敷かれ、Aさんの名 前は翌年の外務省職員録から静かに外された。外務省は明らか にこの事件を秘密裏に葬り去ろうとしたのである。 「文春」のスクープで、事件が発覚すると、中国大使館は次の ようなコメントをそのホームページに掲載した。 中日双方はこの事件の性格についてつとに結論を出して いる。1年半たったいま、日本側が古いことを改めて持ち 出し、さらに館員の自殺を中国側関係者と結びつけている のは、完全に下心をもったものだ。われわれは、なんとか して中国のイメージを落とそうとする日本政府の悪質な行 為に強い憤りを表明する。[5] ■9.異常な外務省の姿勢■ 日中両国が加盟する「領事関係に関するウィーン条約」は第 四十条で「領事館の保護」に関して、次のように定めている。 接受国は、相応の敬意をもって領事館を待遇するととも に、領事官の身体、自由又は尊厳に対するいかなる侵害も 防止するためすべての適当な措置をとる。 今回のAさんへの脅迫は、ウィーン条約の明白な違反である。 それが「日本政府の悪質な行為」とされてしまっているのであ る。中国の厚顔無恥な姿勢は今更驚くべき事ではないが、それ にもまして、問題なのは外務省の対応である。 本来なら外務省は事件直後に、Aさんの遺書を公開して、世 界に対して「中国はこうした野蛮な工作をする国である」とア ピールするとともに、東京で諜報活動をしている中国外交官を 何人か名指しにして国外追放にするのが、外交の世界ではスタ ンダードな報復措置である。 それを、おざなりな抗議で納めてしまっては、中国は「日本 はこの件で事を荒立てたくないのだ」というシグナルとして受 け取ってしまう。諸外国は「日本は与しやすい。日本の外交官 にハニー・トラップをかけても、リスクはない」と見るだろう。 この異様な外務省の姿勢は、官僚的な事なかれ主義から来る のだろうか。あるいは、日本国内で千人を超えるという中国の 「モグラ」の一部が外務省に巣くっていて、その政策をねじ曲 げているのだろうか。いずれにしろ、外務省の体質にメスを入 れなければならない。 (文責:伊勢雅臣) |